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『現代の肖像』 Asahi Shimbun Weekly AERA 1997.5.12 |
| 孤高に舞い、「境界」を無化する。 坂東玉三郎 天性の美を孕んでいても、肉体の衰えは食い止められない。強靭な筋肉を密かに駆使して舞う玉三郎にしても、それは例外ではない。 性、因習と自由、幻想と現実の境界線を、舞うことで、軽々と踏み越えてきた彼は、孤独に、自らの限界を日々、先延ばしにしようとしている。 文:島崎今日子 上演前一時間を割って役者は瀟洒な鏡台の前に座った。紬の部屋着の肩を脱ぎ上半身シャツ一枚になる。化粧がしやすいように自ら考案した襟を大きくくったシャツである。がっしりした骨格と首筋の後ろについた薄い脂肪が役者の性と年齢を教えている。鬢付けを肌に塗り込み眉を消し、羽二重を頭に巻く。刷毛に浸した水白粉を首筋から顔へと塗り上げて、粉白粉を叩く。たちまちのうちに肉体の中の男が封じ込められる。目元と頬にピンクのぼかしが施され、目張りが入る。紅が塗られる。眉がひかれる。長い指が持つ筆に迷いはない。 鏡の中から艶然と笑っているのは、女だった。 三月一日夕刻、歌舞伎座で「籠釣瓶花街酔醒」の舞台稽古が始まった。舞台中央に植えられた満開の桜の向こうから登場した花魁八ツ橋に扮した坂東玉三郎を、衣裳方の田中教義は袖から見つめていた。 田中の衣裳方としての年月は、そのまま玉三郎の役者としての歴史と重なる 初舞台を踏む七つの玉三郎に「寺子屋」の小太郎の衣裳を着せた十八歳の時から四十年間、田中はこの美しい女形と共に生きてきた。衣裳倉庫の中で、中村歌右衛門の衣裳に見入っていた十五歳の頃の玉三郎が思い出された。少年の頭の中でそれぞれの衣裳がどの芝居のどの場面で使われるかがすでに峻別されていることに、田中は驚いた。 子役時分、少年はばあやに付き添われて中振の着物姿で楽屋入りし、少しも騒がずに女形たちの化粧を食い入るように見つめていた。そんな子は見たことがなかった。彼は、歌右衛門の八ツ橋が切りつけられるシーンに魅了され、五つで歌舞伎役者を志した。その少年が五本の指で数えられるほどの役者しか着たことのない衣裳を着けて、今、歌舞伎座の舞台に立って入る。田中は匂うばかりのその姿に、涙がこみ上げてくるのを抑えられなかった。 一昨年秋の政岡、今年一月の阿古屋、そして八ツ橋とここへきて玉三郎は女形の大役を次々と歌右衛門から伝授された。それは正統派女形の座の継承である。 「八重垣姫を演じた九年前が実際的な継承の時。でも、これでまわりも当代一の女形として認めたということでしょう」と、松竹秘書室の澤田一郎は言う。 しかし、玉三郎が一級の舞台人であるとの評価は、外の世界では早くから定着していた。翻訳劇への出演、演出、映画監督を手がけ、多くの女優が彼のもとで演じたいと熱望する。一方で舞踊界世界最高峰のベジャールが彼のために創作しジョルジュ・ドンが共に踊る。玉三郎が男と女を演じ分けたアンジェイ・ワイダ演出による「ナスターシャ」の舞台は後に映画化された。女優と並んでなお美しい姿態もさることながら、卓抜な演技力、強い放射力、さらに女形という二重の性が、創造者たちを惹きつけてやまないのだ。 ここ十年、玉三郎は舞踊への傾斜を強めている。九一年の世界バレエフェスティバルで自ら振り付けて踊った「紫陽花」は、超一級のダンサーを驚嘆させ、客席を圧倒した。復興された地方の芝居小屋や小学校の講堂で踊り、臨海副都心の新しい空間で舞う。 歌舞伎という枠をやすやすと超えて外界を駆ける玉三郎を異端だと見る目もある。彼の日本舞踊はバレエ的で「古典の破壊だ」と批判されもした。が、文芸評論家の三浦雅士は「日本的富を集約して日本舞踊の地平を広げている。純粋にすごいことが起きている」と解釈する。三浦に言わせれば、この一人の役者が舞踊界で歌舞伎を世界の中の歌舞伎に押し上げたのだ。 血で芸が伝承されることが建前の梨園で無名から大立者へと自力でのし上がった役者は、戦後、玉三郎を除いて一人もいない。異端か正続か、破壊か改革か。二つに分かれる評価は、尖鋭な表現者の宿命である。 大阪で定宿にしているホテルのスイートルームには、芝居のビデオや胡弓のCDと並んで木下順二原作「夕鶴」の台本が置かれていた。山本安英以外に許されなかったつうを八月に演じるのだ。嬉しいかと訊ねると「この年齢になるとどの役も今演るという意味で重い。いい加減にはできないですね」。 玉三郎は終演後の写真撮影を「顔が疲れている」と断ったが、ワイズの黒いシャツを着た彼は中年男の世俗的な疲れとは無縁だった。若旦那と呼ばれるに相応しい粋な江戸弁。主語は僕、私、俺を行き交う。 一九五〇年四月、大塚で料亭を経営する楡原誠治、喜美江夫妻の初めての子として生まれ「伸び伸び育つように」伸一と名付けられる。子連れ同士の再婚で年の離れた兄が四人いるため、両親は赤い布団を用意していた。一歳半で小児麻痺にかかり右足アキレス腱に麻痺が残った。「助かったのは奇跡のようなものだから後は何でも好きにやらせようって思いましたね」。母の喜美江は躾には厳しかったが、それ以外で彼を叱ったことはない。病弱で閉じこもりがちな末っ子に、父は「お前は最高。お前にできないことはない」と、言い聞かせた。この両親の愛情が少年の可能性を刈り取らずにすんだのである。 幼い伸一の関心を引いたのは、家に出入りする華やかな芸者衆だった。島田に結った髪を見て「あの帽子が欲しい」、着物姿を見て「あれが欲しい」とねだる度に、父は付髷や赤い着物やこっぽりを末息子に買い与えた。邦楽のレコードが鳴り出すと、母の羽織や風呂敷を巻いて踊るようになっていた。父は伸一の目覚めの時間んに合わせてレコードをかけてやった。「下ぶくれのそら豆みたいな顔したあの子がおすましして踊るから、それが面白くってみんな大喜び」と八十五歳の母は記憶を辿る。伸一は子供心に自分がすまし顔になればなるほど大人たちが喜ぶことに気づいていた。陶酔しているようで醒めていた。玉三郎の舞台は時にナルシスティックと評されるが、本人は「ナルシストみたいな顔してやんないとお客さんも酔えないでしょ」と、三歳の頃の原体験を口にする。「お客さんがいなければ存在意義はない」彼は、客体になりきることが観客への最大の礼儀だと知っている。 「女形に後ろめたさを持ったことは一度もない」玉三郎だが、それは幼い頃から性を規定されることがなかったおかげだ。近所の子供とままごとをすると、トミコちゃんがお父さん、クニオちゃんは娘、自分はお母さんと、役を振り当てた。 男児に「女、女」とからかわれても平然としていた。「なにさ、泥つけて汚い。僕が楽しいんだからいいじゃないか」 幼稚園の入園式の日、水色の上っ張りを着せられ、水色の列に並ばされた。隣の列は桃色の上っ張り。初めての社会で男と女という枠組みを見せられた少年は、一日で幼稚園を辞めた。「なんで分けられるのかと思うと、もういられないんだ」 「お前は最高。できないことはない」 父は息子にいい聞かせた 役者になってから「歌舞伎とはこういうものだ」と叱られ、どうにも理解できないことがあった。外の仕事を止められる理由もわからなかった。その原点には枠をはめられることのなかった幸福な育ちがある 両親は、幼稚園の代わりに足の訓練になる日本舞踊を本格的に習わせ、琴を始めさせた。雨の日と晴れた日の琴の音色の違いを聴き分け、踊りの稽古場では他の子たちが座る位置まで演出する子供だった。お習い会からはひっぱりだこで、声がかかると「花道あるの?」「舞台の大きさはどれくらい?」「肌脱ぎは?」と訊ねた。出番がすめば「もう一回踊る」とごねる息子を、父は「やつが気がすむまでやらせてやれ」と手放しで応援した。三日三晩、大広間いっぱいに色違いのちり紙で花を作り続けたこともある。 「あれになりたい」と息子が歌舞伎の女形を指さすようになると、父は近所に住む先代梅幸の弟子に相談を持ちかけた。その人は「瓢箪から駒かもしれないから子供のないところにやりましょう」とアドバイスした。藤間勘紫恵と結婚したばかりの十四代守田勘弥の部屋子となったのは、六歳の六月六日のことだ。 「そういう意味で言うと僕は手段を選ばなかったのかもしれない」。“血筋”が悪ければいくら才能があっても大きな役につけない世界である。彼は、養子という形で中央の座に座った自分を露悪ぎみに突き放す。が、複数の弟子の中から養子へ乞われ、さらに抜きんでていったのは実力だと多くの人が証言する。現に母は、「偉くなれる世界じゃないから、色替わりの腰元にでもなれたら帰っておいで」と、いずれ息子が諦める日が来ると考えていた。 玉三郎に踊りを仕込んだ養母の勘紫恵が少年の才能に触れたのは、『お軽勘平の道行』を教えた時だ。「落人の」の唄にかぶせて左右を見るところで伸一の目線が下にいく。「上を見るのよ」と言うと、「鼠探してるんじゃないの?」ときょとんとする。「おチュウ殿」と間違って解釈したせいだが、唄の文句を仕種に出そうとする六歳の感性には驚かされた。 巣鴨小学校に上がった冬に、坂東喜の字の名をもらい舞台に立った。歌舞伎の子役を奇異な目で見る先生もいたが、家に帰れば好き放題に時間を過ごせた。ましてや一つ役がもらえれば二十五日間も心地よい舞台に立ち続けていられるのだ。 「よかったね、舞台があって。なかったら僕はコンプレックスの固まりで死んでいたと思う」。幼い頃から玉三郎は、世間がもろ手を挙げて自分を迎え入れてくれないと知っていた。歌舞伎役者は、両親に庇護された家庭から社会へ出ていけるたった一つの道だった。踊っていられる以上の幸せはなく、舞台に立っているだけで嬉しかった。 彼が役者として貪欲に芸や知識を吸収していったのは、多くの御曹司たちのように芸がお家のための義務でなく、それが欲望の対象だったからでしかない 「今でも好きなことしていればいいんだ、僕。ほめてもらうのは好きだけれどごほうびもお金もいらない。ずっとそれが許されてきたんだから幸せだね」 十四歳で勘弥の芸養子となり、五代目坂東玉三郎を襲名。翌年、右足アキレス腱の手術後、中村雀石衛門の代役として初めての大役を努める。勘弥は彼に役者の基礎を叩き込み、積極的に相手役に起用した。三島由紀夫が自殺する一年前に抜擢した『椿説弓張月』の白縫姫で、マスコミに躍り出た。十九歳の時だ。松緑、先代幸四郎ら幹部役者の引き立てもあり、三島が「現代の奇跡」と讃えた美しさ、危険なまでの華やかさが人気に火をつけた。評論家の水落潔は「肉体を感じさせない透明感があった。清潔感が美となる時代に、無駄のない美を追求していく玉三郎が受け入れられた」と、彼が寵児となっていく理由を解説する。 「奇跡」と讃えられた美 それは、無駄のない透明感、清潔感の美 だが、若い玉三郎は苦悩の中にいた。舞台で後見を努める坂東守若は、二十二歳で勘弥に弟子入りした時から四つ年下の玉三郎の側にいて、つぶさに彼の苦渋を見てきた。病弱で楽屋に泊まり込む日々。変声期が長く十年近く声が不安定だった。身長が伸び続けた。木戸をくぐっただけで客席から失笑が起こった。長い手足、小さな顔は従来の女形の規格から外れていた。小柄な立役の相手を努めるために、脚を折り腰をかがめて美しく見える形を研究した。夢二や清長の絵から着物の着方やポーズを真似た。「ある時から観念して欠点を長所にしていった」と、守若は述懐する。 玉三郎がバレエに惹かれていったのはこの時期だ。彼がヨーロッパへと心を向けたのは、恐らく自分に重圧をかける“日本”から一瞬でも逃れたかったからではなかったか。だが、それは歌舞伎を俯瞰する結果となり、後の活動へと発展していくことになる。 初めてバレエを見た日から開脚の訓練を開始し三ケ月で習得、それから二十八年間、一日も訓練を休んだことがない。「お前にできないことはない」と父に言われて育った彼は、どんな高いバーでも乗り越えてしまう。守若は、「鶴の巣ごもり」初演のために動物園の鶴の前に立つ玉三郎に何時間も付き添った。海外に出ても仕事場とホテルの往復で、自由な時間は役作りのために費やされる。守若に言わせれば、それは「気が狂っちゃうほど」ストイックな生活だ。衣裳方の田中は、こんな玉三郎を見ていると胸が潰れそうになることがある。「すべてを犠牲にして仕事だけ、それが楽しみだって言うんですから……」 台本も衣裳も照明も装置も、玉三郎は自分が納得いくまで手直しさせる。三年の年月と莫大な経費を使い製作した十巻の舞踊集。四億かけてこしらえた能舞台より一回り大きな舞踊舞台。「無理難題言われても努力を見せられたら我々もやらないわけにはいかない」。マネジャーの伊藤寿の弁である。 肉体が滅べば芸は消える ベストを尽くしてうまくあの世へいきたい 玉三郎の身体を調整するトレーナーによれば、彼の脚の筋肉は世界一級のアスリートのそれに匹敵する。右足が不自由でも踊れたのはその筋肉のおかげだ。だが、もし右足が自由なら今の玉三郎はなかったかもしれない。右足の麻痺も、一七三センチの身長も、長い手足も、梨園に生まれなかったことも、ベートーベンの耳だった。それ故に彼はますます磨かれていったのだ。二十四歳で守田の籍に入った半年後に後ろ楯の勘弥をなくしたことさえ、彼は外部出演で活動の場を広げていくという形でプラスに転化していった。 化粧をし衣裳を着ければそのままで舞台に上がれた二十代まで、彼は女形について語れなかった。考える必要がなかったからだ。が、三十を過ぎたある日、それまでの痩せて性を主張しなかった身体に肉がつき、気がつくといかつい男の肉体が現れ出していた。それまで意識したこともない“女”を作るという作業が始まった。「男の肉体がやってきて否応なく自分が生物的に男だと自覚させられた。その時に成人したと思う。やっと女形というものを認識させられたんだね」 そこで思い知らされたのは、今まで自分は女の視線で世の中を見たことがないという事実だ。男の作家が女を書くように、女形という作品を作ってきたのだ。「何百体と女を演っているのに僕は男の感覚、意識しか持っていない。たとえば僕が女を愛そうと男を愛そうと、僕が女でないことは確かなんだね」。玉三郎が歌舞伎の女形という枠を超えても“女”を創れるのは、自らの視点の在り処を視しているからだ。 評論家の天野道映は、玉三郎を「自分の身体を熟知し、それを相対化する術を知っている」と評価する。しかし、彼の革新性は、肉体だけでなく自分そのものをも相対化してしまえる能力にある。自身、「玉三郎じゃなかったら人が僕をどう見るか、よーくわかっている」と言い、「いろんな男の人と仕事して世間ではずっと色々言われてるけど、仕事している人とはないよ。恋はいっぱいあったけど。でもそう見られて結構、冥利に尽きるよ。それぐらい作品にエモーションがあるってことだから」と笑い飛ばすのである。 自分との闘いを一瞬もやめることのできない玉三郎にはいつも孤独がつきまとう。あれだけ愛してくれた父がいないことが今でもたまらなく淋しい。弟子が部屋に洗濯物を持ってくるだけで心がなごむ。「もう疲れたなあ、と。ベストを尽くしてうまくあの世に行きたいなあというのしかあまりないのね」 養母の勘紫恵は、家族を持ったらと勧めたこともあるが、息子の頭の中には「芸のことしかなかった」。「養子をとるつもりはないね。誰もが若貴だってわけじゃないし、芸ってそんな形で託せない。僕の肉体が滅んだ時に消えてしまうんだから」。歌舞伎の源泉そのもののような玉三郎が絶頂の人気を誇るのは、世襲を疑わない歌舞伎界には皮肉な話だろう。 彼は、加齢により芸が深まるという言説に「そうでない役もある。それは、そこに技術だけが十分あればいいという妄想だ」と反論する。亡くなったジョルジュ・ドンには「肉体表現者として幸せな時に死んだ」と言葉を贈る。「老人が娘を演るのは苦しいものがある」とためらいなく口にする。その言葉がそのまま自分への刃として返ってくることを承知しながらである。演出や監督への志向も、前提にはやがて舞台に立てなくなる日の覚悟があった。もはや、「肉体的なピークも美しさも盛りを過ぎ、近づいてくる限界を一分一秒でもなんとか延ばそうとしている」。 男と女、日本と世界、陶酔と覚醒、伝統と前衛、儚さと強さ、虚構と迫真―― あらゆる両義性を存在の中に抱え込みながら、坂東玉三郎は狐高の道を行く。彼は取材の後で、「ここから見る景色が大好きなの」と大きくカーテンを開いた。そこには、雨にうたれてなお満開の夜桜が、大阪城のライトに照らされて闇の中から浮かび上がっていた。 島崎今日子 1954年、京都市生まれ。大阪市在住。甲南大卒業。著書に『女学者丁々発止』 など。本欄で「脚本家・北川悦吏子」「女優・桃井かおり」「女優・大竹しのぶ」 などを執筆。 『この記事は朝日新聞社の許可を得て転載したものです。朝日新聞社及び島崎 氏に無断で複製、翻訳、送信、出版、頒布するなど、著作権を侵害する一切の 行為を禁止します。』 |