『
玉 三 郎・舞台の夢
』
1984年7月25日
新書館発行
著者須永朝彦・坂東玉三郎
第
二章 泉鏡花・鶴屋南北 −新作と伝承
鏡花幻想
魂の言葉
須永
いままでに演じていらした鏡花の作品のひとつひとつに愛着があるとおっしゃられましたが、そうしたことについて少し詳しくお伺いしたいですね。
『天守物語』は、ご自分で選んでなさったとか、伺いましたが。
玉三郎
昭和34、5年でしょうか、ぼくが子役になって2年目、10歳の時に歌舞伎座で『天守物語』を上演したんですね。その時の薄暗い中の輝きのような不思議な芝居の雰囲気が忘れられないですね。あんな綺麗な芝居をやってみたいと思っていました。父(十四世守田勘弥)が図書之助を演じていました。天守夫人富姫が中村歌右衛門さん、亀姫は先代の中村時蔵さんでした。それがもう、ぼくにとってはある種の夢のようになっていました。
鏡花先生の名作であって、あまり上演されていないということで戯曲も読みました。花柳章太郎先生も『天守物語』をなさっているんですね。花柳先生の富姫、水谷八重子先生の亀姫、伊志井寛さんの図書之助で昭和26年に。この時はぼくは1歳ですから観ていませんけど(笑)。
須永
それが『天守物語』の初演でしょう。ぼくも観てませんけど、4歳ですから。これは新劇の千田是也さんの演出で、音楽はドビュッシーの『雲』を使ったということです。たいへんに結構な舞台だったそうですね。
玉三郎
この時の花柳先生の富姫のね、鷹狩に雨を降らして天守に帰ってきたところが、どんなに素晴らしかったかは、三島由紀夫先生がお書きになってますね。
須永
そうしたお小さい頃のイメージや美しい舞台写真や、戯曲をお読みになってのおもしろさで、お好きになられたわけですね。
玉三郎
ええ、そうです。首をおみやげに持ってきたり、そういうことがすごくおもしろくて。
須永
鏡花をひとつのファンタジイ、あるいは幻想小説として読むというブームがあって、それ以前は鏡花というと新派の古風な恋愛劇としてしか見なかったきらいがあるのですが、ファンタジイあるいは幻想文学でもあるということで見直されてくるようになった。そして、SFに興味を持つ新しい世代がファンタジイとして読み返すことがおきたのですが、鏡花の中のファンタジイ、あるいはファンタジイ一般についてはいかがでしょうか。
玉三郎
とても好きです。鏡花の作品では『恋女房』や『海神別荘』などその傾向が強いんじゃないでしょうか。
ファンタジイというと、ぼくたちはディズニー映画のファンタジイの世代なんですよね。子供の頃、そういうもので教育されているんですね。『ピーター・パン』とか『白雪姫』、『ダンボ』や『眠れる森の美女』とか大好きでした。
そして、またファンタジイという言葉は、少しニュアンスが違いますが、日本の能の言葉でいうと「幽玄」になるのかもしれません。この世界にリアルには存在しないものと魂の問題になると思うんです。鏡花先生がいつも描いているのは、この魂の問題なんですよね。ですから鏡花先生の作品をファンタジックなものと、花柳界のものと分けて考える方もいるけれど、ぼくは分ける必要はないと思います。すべて魂のお話ですから。
人の「達引」というものに対しても鏡花先生は異常なまでの尊敬を持っている。
特に女の侠気、義侠心。ぽーんと胸をたたいて「わかりました」と言い切る女の魂のいさぎよさ、美しさ。こういったものが昔は花柳界には往々にしてあるので、偶然、花柳界が舞台になったのでしょうね。ある意味では、花柳界の人間を描くというよりも、そういう心を描きたかったのでしょう。鏡花先生には花柳界の人間だろうが、医者だろうが関係なかったのかもしれない。自分の魂にふさわしい魂を持った人間ならば、どんな世界の人間でもいい、人間でなくとも魂が合えばいい。だから、花柳ものとかいった区分けはしなくていいんじゃないか。ぼくはそう思います。
どの魂もさわやかな言葉で描かれていると思います。天守夫人の富姫も幽玄の世界の住人で、毅然としていて。
富姫は人間世界を見通していて、権力や封建社会に反抗心をもって城の天守に住んでいるんですね。そして人間たち、城の持主である播磨守たちを上から笑っている、彼らを相手にしない。それでお化けたちと遊んで暮らしているんですけど、図書之助という人間に逆に心を開かせられる。大きな毅然としたものを持ちながら恋する女になってゆく。二人の恋が、下界の権力に侵されそうになった時に彫物師、芸術家が出てきて救う。鏡花先生の恋愛至上主義と芸術至上主義が合体し、互いに助けあった作品だと思います。そしてまた、それを表す言葉がなんともいえないものなんですね。
それともうひとつ鏡花先生の独得な遊びですね。富姫と亀姫の二人のやりとりとかね。妹分の亀姫が自分のみやげの生首を、天守の獅子頭が一口に呑みこむのを見て、「お姉様、おうらやましい。旦那様がおいであそばす」と言う。そうすると富姫が「嘘が真に。…お互に」。亀姫が「何の不足はないけれど」、富姫が「こんな男が欲しいねえ」と言う。そういうことをぬけぬけと言っていながら、ちっともいやらしくない。精神で語っているからでしょうね。
そういう二人のやりとりを「お言葉の花が蝶のように飛びまして、お美しい事でござる」と、わきから朱の盤坊に言わせてるんですけど、そういう遊びというか、気持のやりとりがたのしいんです。
須永
かなりグロテスクなもの、エロティックなものを描いても、綺麗で澄きとおっていますしね。玉三郎さんがなさった『日本橋』もずいぶん不思議で、エロティックなお芝居でもありますね。女主人公のお孝は最後に硝酸を飲んで自殺してしまう。
玉三郎
あれも名作ですね。
須永
あれはかなりグロテスクな物語でもありますね。
玉三郎
そうですよ。だって羆の毛皮をきている「熊」という仇名の伝吾と日本橋の一流の芸者とがね、日本橋の芸妓屋の2階に住んでいるということが、すでにそうでしょう。
まず清葉という魂の清らかな芸者がいるんです。その清葉はどんな男に言い寄られても思いを遂げさせないわけで、お孝がそれに反感とあこがれを持っている。それで清葉の振った男なら、「油虫だろうが毛虫だろうが、蹴出しの模様に縫い込んで面當てに見せびらかして」やろうというんですね。清葉に振られた伝吾と住み、清葉と別れた葛木に恋しはじめるのもそう。清葉のまわりにいる男をよび集めてゆく、そんな行為の迫間に立って、堕ちてゆくわけです。
葛木はお孝を真実愛するから、お孝の以前を許せずに出家してしまう。そのため、お孝は気が狂ってしまうんですね。
そして最後に硝酸を飲んで死ぬのだけど、その時初めて清葉の手をとって、あなたにあこがれていた、あなたのようになりたかったけど、なれなかった、私はこれから死んでゆくけど、ここで笛を吹いてたむけてください、と言う。清葉に心を打ちあけ、自分の煩悩を清葉の笛に托すんですね。死ぬ前に熊を殺したことを告白して、清葉に葛木を托してゆく。
熊の伝吾と、お孝と、煩悩たちが死んでゆき、葛木と清葉という精神性のものが残るんです。煩悩が死んではじめて精神たちが結ばれることができるんですね。
タイトルのイメージ
須永
『滝の白糸』については何かお話がありますか。
玉三郎
あれは鏡花先生がデビューしてまもない24、5歳の頃の作品で、まだ筋立てとかに尾崎紅葉先生の影響があるようです。でも、描かれている設定や雰囲気、その何ともいえないもやもやした暗さ、暗さというか色彩は、鏡花先生の独特なものですね。
裁判官になった自分の恋人村越欣弥とね、罪人になった自分とが一瞬にして、滅んでゆく、そのストイックなところとかね。二人は馬の上で見初めあい、何日目かに卯辰橋のたもとで会うんですね。夏の夜、水芸の芸人が芝居を終えて川べりへ涼みにきている。月がさして、五位鷺が鳴いてたりするんです。
滝の白糸がね、お月見をしながら欣弥にあなたの目的、望みは何ですかと聞いて、仕送りをするから、東京へ出なさい、という。そしてその場で欣弥は東京へ出発する。会って契りを結んだか結ばないうちに離れてゆく。で、仕送りをする。出世をして帰ってきた彼と再会した時は裁判所でね、自分は罪を犯して裁かれるためにそこにいた。
欣弥も、自分への仕送りのために罪を犯したというのを知っているわけで、二人は滅びてゆくんです。白糸に有罪を宣告し、自分は自殺するんですね。
須永
舞台の裁判を観ていると、わりと情景が早く進んで二人があっさり死んでしまうような気がします。原作である小説の『義血侠血』の終わりもそうですね。
玉三郎
独特ですね。『外科室』もそうで、小石川植物園ですれちがっただけの二人が恋をして、外科室の手術台で再会する。女が私のことをお忘れになりましたかと言い、医者がなんの忘れることがありましょう、とそこで初めて恋人同士が言葉をかわして、そして最後は、二人はどことどこのお墓に別々に葬られた、とそれだけしか書いてないの。
だから、印象の世界なんですね。たとえば『天守物語』は、鏡花先生が姫路城の天守にあがった時に、パッとひらめいた天守というもののイメージが、あの物語ではないか。そして『山吹』なら世界中の山吹の咲きみだれている所がどんなところか。『日本橋』は日本橋という橋のイメージの意味するもの。そういうあらゆるものからインスピレーションをほとばしらせて、世の中の定規で測れない鏡花先生の解釈によって解き明かされてゆくんですね。
題名がとても重要なのはそこだと思います。『海神別荘』といったら、そこで海神が考えることやすること、すべてふくめて、海神の別荘の話ですね。題と内容とが互いにひきあっているような、互いにゲームをしているようなところがあるんじゃないでしょうか。
『眉かくしの霊』も、眉かくしの霊が出てくるまでの何とも言えない不思議な話でしょう。もしかしたら、鏡花先生が地方の旅館へいって、ふっと感じたこと。ちょっと恐いと思ったことが小説の核だったのかもしれない。
須永
そういう一瞬何かを感じるのは誰でもあることでしょうけど、その一瞬の不思議な感覚を小説なり戯曲なりにして、文学という永遠の形にするのは他の誰にもできないことかもしれませんね。もちろん、『天守物語』ほか、皆種本があります。『天守物語』は主に『老媼茶話』という本がもとになっていて、猪苗代城の亀姫も朱の盤坊も古い伝説がありますし、富姫は姫路城の天守に棲む刑部姫がモデルでしょう。しかし、種本があれば誰にでも書けるというものではありません。一瞬、ふっと感じたこと、その不思議さそのものを美しく結晶させてしまう霊感と才能がなければ駄目ですね。
玉三郎
普通の人でも、地方の宿屋に泊って夜にふっと何かを感じて振りかえってみて、こう、言いしれない不思議を知ったりすることはあるでしょう。でもすぐに忘れて、それきりのことになってゆくわけですから。
誰でもが、あっと思うことがちゃんと書いてありますね。何か変な、ちょっと恐いこと。「特殊だ、難解だ」と評されるけれど、万人に共感できるということだと思います。理解するとかわかるというお話じゃなくて、感覚でしょう。
須永
そうですね。感覚についていけるかいけないか。小説も戯曲も非常に唐突にはじまっていくし、頭でとらえようとすれば確かにわけがわからなくなるし、恐い話も、いわゆる類型的な怪談ではないから、恐さはわかっても話の全体がわからない人もいし。
玉三郎
『眉かくしの霊』などでも幽霊が出てからは恐くない、逆に美しいだけでね。男が風呂に入ろうとすると、風呂場でピシャッと水をかけている音がする。そのへんが本当にゾッとするくらい恐いです。暗くて静かで。
題名のイメージがお話になっていくというのをさっき話しましたけれども、『高野聖もそうで、ぼくの解釈ではこういう話なんです。
『高野聖』では魔性の女がだいぶ問題になるでしょう。でも、ぼくの考えでは問題はあくまで高野聖、高野山で修行をしてあらゆる煩悩を断ち切った男。質素な衣を身にまとい、頭を丸めて煩悩を断ち切らねばならない若い男からほとばしりでるもの。たとえば真冬に高野山でお経をあげている時の白い息とか、そういう生気というか、生命のエネルギーと言ったらいいのか、読んでいてそういうものを感じて、凄いなと思いました。
須永
修行僧である高野聖が断ち切ろうとした煩悩が、かえって拡大してエロティックな、魔性の女性として表れてくる、という意味ですか。魔性の女や、女が主人にしている白痴の男、歩かない馬の下をくぐって歩かせたり、蝙蝠や猿がきて後ろから女に抱きついたり、とかは一種性的な夢である、と。
玉三郎
うーん、それともちょっと違うんです。ぼくの勝手な解釈ですが、それは鏡花先生が高野聖を観てハッと思ったものが、筆を動かしたんじゃないでしょうか。女は登場するけれど、あれはただ妖艶な女を書いているのではないような気がするんです。
高野聖というもの、高野聖の世界を描いている。
はつらつとした男でありながらストイックに、墨の衣に身を包んだ姿を見た時に感じたインスピレーション。単なる性的なイメージではなくてね、春の新芽が吹き出るようなはつらつとしたもの。そのなんとも言えない生気を、読んだ人に感じさせるために、あらゆる設定がある。女や動物は飾りだと思う。
タイトル、あるいはタイトルに限らずひとつの言葉が芯になって、そこに広がる視覚的な世界を文章にしていくのだと思うんです。だから、ぼくの考えでは、『高野聖』は舞台にはなりにくいものだと思うんです。
須永
泉鏡花に対するそうした感じ方は、いつごろから起こったんでしょうか。やはり演じてらっしゃる間に、ということなんでしょうか。
玉三郎
いつから、そうですね。幾度か演らせていただくうちに、小説を読むうちに、ということでしょうね。お芝居の場合はひとつの戯曲を毎日毎日、自分の口で朗読してゆくわけですから。そうしていると、自分の中で見えてくるものがあるでしょう、鏡花先生の世界の成り立ちとか、法則とか。それでまた知らない作品を読んで、こうではないかと考えてゆく。そうするうちに解釈がついていきますね。『日本橋』なら、日本橋という花柳界があり、雪の一石橋という場面なりがあって、橋というもののイメージが小説をあれだけのものにするんだな、と思ったりします。
幕切れの台詞
須永
かなり鏡花の感覚がわかってきて、また本当に鏡花がお好きであって、そのうえのことなのでしょう。
玉三郎
まあ、そうなのかもしれません。
それから、おもしろいことに、鏡花先生はお医者さんなり医学なりをすごく尊敬していたようですね。
たとえば、『恋女房』というお話もそうですね、最後に看護婦さんがでてきちゃう(笑)。
おかしなお話なんですね。初めは金持ちの酔っぱらいがいるわけなんです。それが自動車で芸者をつれている。吉原が火事で焼け野原になって、遊女の墓がずっと並んでいる所に酔っぱらいがきて、お墓をけとばして通るんです。それを主人公のお柳が啖呵を切って止めるんですね。 お柳は重太郎という夫と相愛の仲だけれど姑にいびられてるんです。姑の槇刀目ってすごいお婆さんに追い出されちゃうんで、自分の生れたところ、焼け野原になった吉原に帰るんです。この話で不思議なのは、赤魔姥という恐い火の魔物がいて、これを見て誰かが火傷で死んだりしてね。で、いじわるな姑が何かのお祝いかで赤い着物を着ていて、お柳をいびってると赤魔姥そっくりになっちゃう。お柳が焼け跡に行くと今度は本物の赤魔姥がいて、いじめる。重太郎も家を出てそこにきていて、二人で赤魔姥と戦うんだけど、二人はやられちゃって倒れちゃう。そうするとお医者さんが出てきてね、二人を病院にかつぎこんでいくんですよね。で、その場は終わってしまう(笑)。
で、次の場は舟が出てくるんですよ。川に屋形舟が浮いて、そこにお柳がいて、舟の障子の中には重太郎がいる。舟を漕いでいるのは看護婦なんです(笑)。もう、いったい何だろうっていうお話でしょう(笑)。
二人は死なないんですね。看護婦、つまり医学が二人の愛を救うんですね。
そこへ赤魔姥が筏に乗ってきて焼こうとする。お柳がね「赤い婆さん、隅田川は焼けるかい」って。怒って火を投げるとね、重太郎が「酒で消せ」ってお酒をかけると、ジュッと消えちゃう。そこで、赤魔姥は、二人の心は焼けないからと退散する。とそこで看護婦が、「3日目で、はじめて口をお利きなさいます。お二人さん御病気はもう大丈夫でございますよ」と言う。それが最後のセリフなんです。
二人の恋は焼けない、それで『恋女房』という題なんでしょうね。
須永
そうなんでしょうねえ。
鏡花の時代の医学は現代と違って、もっと神秘的なもの、どこか霊的な、生命を司るものとしての尊さがあったんでしょうね。
今お話になった『恋女房』の幕切れの言葉も印象的ですけど、いろいろとなさったお芝居の中にも幕切れの言葉の印象的なものなど、おありでしょうね。
玉三郎
鏡花先生のお芝居はみな凄いです。小説も最後の5行ぐらいが大切です。その最後の五行で全部を語ってしまう。
『山吹』の台詞も凄いですね。あれは、女がいて、その女が憧れ慕っている絵描きがいる。もう一人、昔、女にたいへん失礼なことをしたと後悔している呑んだくれの老人がいる。女は絵描きのために夫や家まで捨てるんだけど、どうもその絵描きはダサイわけ(笑)。
女は老人に頼まれて老人を打つんですね。老人は打たれることで昔の女に対する罪のつぐないをする、という。女は自分が打つことで自分をいじめつづけた姑に対して、世の中の不条理に対して心が昇華し、老人は打たれることで昇華する、それで二人の魂が安まるならば、自分は一生この老人についていき、老人を打ちつづけようと決心する。で、すべてを捨て、恋人を捨てて行きかかったところで、ふっと振りかえって絵描きに「先生、世間へよろしく」って言うんです。でもこの世間へよろしくって、いったいなんでしょうね、これは(笑)。それで先生がなんでダサイかというとね、二人をとめなければならない、どうしようと迷うんですね。それで幕切れのセリフを言う。「いや、仕事がある」(笑)。
須永
やっぱり、世間の人だから(笑)。
玉三郎
「いや、仕事がある」、これが結論なんですよね、絵描きの男の。
須永
でも、説得力がありますね(笑)。恋愛にも走れない芸術も成り立たない、普通の人間はやっぱりね、そうでしょうね。その台詞も万人の共感をよぶのではないでしょうか。
玉三郎
『夜叉ヶ池』だっておもしろいですよ。ぼくは映画と舞台で『夜叉ヶ池』を演らせていただいたんですけど、百合の子守唄ね、あれがおもしろかったです。ぼくは子守唄って、人間の魂が安らぐための歌だと思うんです。一種の鎮魂歌というか。赤ん坊が泣くのはお腹が空いて泣く、悲しくて泣くのではなく、世の中に対してのなんともいえないそぐわなさに泣くんじゃないか と思って。魂がいらだって泣く、悲しくて泣く。母親の子守唄で泣きやむというのは、歌が魂を鎮めてくれるからだと思うんですね。自分が存在してしまっていることの恐ろしさを、安らかにしてくれるんじゃないのかな。
百合は、恋人の晃が行ってしまうのではないかという不安をまぎらわしながら、人形を抱いて歌っている。夜叉ヶ池の主の白雪姫は恋しい剣ヶ峰の若殿様に会いたくて飛んで行きたい。行ってしまうと夜叉ヶ池から大洪水が始まって人間を滅ぼすことになるから迷っている。人間が鐘をついている間は洪水を起こさないという約束があるわけですよね。でも会いたいと迷っていると百合の歌声が聞こえてくる。
恋しい人を待つ時は歌を歌えばまぎれるものか、そして自分が池を離れると美しい人たちの命も失くしてしまうからと、思いとどまり、去る。美しい人たちって、百合と晃のことなんですね。それで、白雪姫の一番終わりの台詞は「お百合さん、お百合さん、一所に唄をうたいましょうね」という言葉で切れるんですね。
だからもし、『夜叉ヶ池』にサブタイトルをつけるならば、「鎮魂歌としての子守唄の効用に」にしようかと冗談を言っていたことがあるんですよ(笑)。
須永
鏡花の一言、一行はまさに黄金製という感じですね。
新派に初めて出られた時にお演りになった『稽古扇』はいかがですか。たいへん鮮やかな印象があるのですが。
玉三郎
『稽古扇』の最後の台詞はね、たしか「魂はどこにおいでだろうね」。 これも本当になんとも言えないお話ですね。
恋をしているお藤という娘がいる。家の事情で今日からは娘といえないんだ、と。芸者に出なくてはいけないので髪結いに行って、娘の髪を芸者の髪型に結い直しにきてるんですね。そこに舟虫の紋次という、ゆすりたかりをするきたならしい男がきて、お藤に惚れて「一服吸ひつけておくんなせえな」と吸いつけ煙草をせがむんです。
髪結いの姐さんがお藤をかばって、追い出すんですね。なんてことを言うんだねって、啖呵を切って。紋次は竹筒を持っていて、中にムカデとか油虫とか毒のあるトカゲや蛇、ゲジゲジを入れて持ち歩いている。ゆすりが上手くいかないと、蛇やゲジゲジなんかを、その家の座敷にまきちらす、そんな男なんです。それから、髪結いの姐さんの家に川辺 旬作という厭な男が下宿しているわけなんです。油がギタギタしていてとか、すごく厭 な男に書いてある。風呂に滅多に入らないとかね(笑)。この男もお藤が好きでね。ま ず、こういう設定があります。
次の場は川べりに雁雁松という所があって、そこでお藤の恋人の信夫が喧嘩をする。それをお藤が追ってくるんだけど会えなくて、川辺に会ってしまって、からまれちゃうんです。「白粉ですか、香水ですか、此の香が堪らない」と抱きついてくる。それと戦って、稽古扇でたたいて、川へ沈めちゃう。月夜で桜の花が散ってくるのを、扇をパッと開いて花びらをうけてね、「あれさ、お前さんたち、汚い男の上に落ちちゃ可厭」という(笑)。わからないでもないけど。
で、お藤は、自分が人殺しをしたと思って錯乱しちゃうんですね。そこへ、さっきの髪結いの姐さんがきてね、しっかりおしよ、とお藤を稽古扇でたたくんです、正気づかせるために。
舟虫の紋次が出てきて、また言い寄るんだけど、結局、紋次は自分が恥ずかしいって、自殺するんです。お藤が恋人を思う気持とか、若い女の潔癖さに打たれてね。さっきの 花びらが汚い男の上に落ちるのがいやというようなところとか、そういうものに打たれ て、自分の持っている毒虫を飲んで死んでゆく。
お藤がね、いやらしい川辺が冥土に待っていると思うと死にたくない、と言う。そう すると、紋次は、自分が先に冥土へ行って守ってやるから寿命で死んでからゆっくりき な、と言うんです。本当は自分が川辺を殺したと打ちあけて、罪を自分の身に引き受け て死んでゆく。その気持に打たれて、お藤も兄さんと呼ばせてくださいと言う。で、一 目お藤の踊りが観たいというので、「暁の明星は西へ」と歌いながら踊る。そして「魂 は何處においでだろうねえ」と言って終わるんです。
いろいろなイメージが全部こめられているんですね。タイトルが『稽古扇』でしょう、だから本当に稽古扇、です。お藤が恋人と逢い引きするのに、扇を手拭で下げておいた ら信夫がわかるんじゃないかとか、書いてあるところもあるんです。
須永
『稽古扇』なら扇にかかわるすべてのイメージや、そこから湧いたインスピレーションにこだわってゆくところがありますね。
玉三郎
だから、鏡花先生の作品は、ただ理解しなさいと押しつけても、なかなかわからないことも多いのだろうなとも思います。鏡花先生の感覚に親しんで、馴れていくとわかりやすいんですけど。
須永
そうですね。鏡花の感覚に親しみを覚えられる人でないと、なかなか理解しにくいお話が多いですからね。
玉三郎
あと、困ってしまうのは戯曲の場合卜書が説明になっていない、卜書が文学になっているんです。たとえば『夜叉ヶ池』の白雪の衣裳を「雪なす羅、水色の地に紅の焔を染めたる襲衣、黒漆に銀泥、鱗の帯」とかね、銀の靴とか光り輝く鉄の杖とかが出てくるんです。けれどみんなイメージでしょう。衣裳や小道具を実際に作ることはできない。みんな文学的な美しいイメージなんですね。
須永
4月になさるもうひとつ、『長崎十二景』、あれは、類のない独得のものですね。絵が動き出すような舞台と言いましょうか。